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東京地方裁判所 平成5年(ワ)14252号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、二〇〇万円及びこれに対する平成五年八月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

四  この判決の一項は仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、一〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成五年八月一四日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告の母である訴外甲野ハナ(以下「ハナ」という。)が被告の管理経営にかかる東京都立府中病院(以下「府中病院」という。)に入院中ベッドから落ち、側頭部を床に強打したことが原因で、くも膜下出血により死亡したことが、府中病院の担当医師の看護上の過失によるとして、原告が被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき損害賠償の請求をする事案である。

一  争いのない事実

1 原告は、ハナ(明治四四年一二月三日生)の長男である。

2 被告は、普通地方公共団体であり、東京都府中市武蔵台二丁目九番地二号所在の府中病院を開設し、管理、経営している。

3 ハナは、平成二年七月一一日、府中病院循環器科において診察を受け、同科担当医師の訴外藤田洋子(以下「藤田医師」という。)から「心筋梗塞の疑いが強い。絶対安静。」と言われ、同日府中病院に入院した。

入院後のハナの主治医は、当時府中病院に勤務していた藤田医師であり、循環器科の医長は稲葉茂樹医師(以下「稲葉医師」という。)であった。

4 原告は、同年七月一四日頃、藤田医師から「ハナは心筋梗塞ではないと思う。ポータブルトイレを使用できる。」旨言われ、ハナの付添いを希望して許可を得て、夜間ハナの病室に簡易ベッドを置きハナに付き添うようになった。原告は、ハナの食事及びポータブルトイレを使用しての排便、排尿の介助をしていた。

5 同年七月二九日午後一〇時五五分頃ハナの病室で物音がし、看護婦がハナの病室に赴いたところ、ハナがベッドの右側の床に仰臥位(仰向け)で倒れていた。その際ハナは右側頭部を打撲していた。

6 同年八月七日午前四時頃、ハナの病室から物音がし、看護婦が見に行ったところ、ハナがベッドと洗面台の間の床に仰向けに倒れていた。

ハナは頭部打撲の傷害を負っており、同月一五日午後一〇時三二分くも膜下出血により死亡した。

二  争点

1 ハナの死亡の原因はベッドから転落したためか否か。

2 担当医師(藤田医師)又は循環器科医長稲葉医師の注意義務違反(過失)の有無及び被告の不法行為責任

3 慰謝料の額

三  争点に関する当事者の主張

1 争点1について

(原告)

ハナは、平成二年八月七日午前四時頃、ベッドから転落して頭部を打撲し、右打撲が原因となった外傷性くも膜下出血により死亡した。

(被告)

ハナがベッドから転落したのか、ベッドを下りた後倒れたのかは断定できず、くも膜下出血の原因も不明である。

2 争点2について

(原告)

ハナは入院以来しばしばベッド上に立ち上がっており、そのことを藤田医師は認識しており、又実際ハナは平成二年七月二九日にベッドから転落して頭部打撲の負傷をしたこともあるのだから、藤田医師は、ハナがベッドの上に立ち上がってベッドから転落し、頭部を床に強打して負傷ないし死亡することが具体的に予測できた。

従って、藤田医師としては、右の危険発生の防止のため、<1>ベッドの使用を止めて病室に畳を敷きその上に寝具を置くか、或いはベッドの使用を継続するとしても、<2>抑制帯を使用するなどしてハナがベッドから落ちないように適切な措置を講ずるか又は<3>ベッドから落ちても衝撃を緩和する措置を講じ、もってハナが負傷ないし死亡することを防止すべき義務があったが、これらの義務に違反した。

(被告)

(1) 予見可能性がないこと

ハナは、本件入院期間を通じて、積極的に動き回ることはなく、夜間は大体静かに睡眠状態に入る点で平均的な患者と同様であった。又、言語は発し得たし、会話も可能であった。意識消失も入院後には消滅していた。従って、ハナがベッドの上に立ち上がり、ベッドから落ち、頭部を床に強打して負傷ないし死亡することは具体的に予測できなかった。

(2) 畳を敷きその上に寝具を置く義務の不存在

床に畳を敷きその上に寝具を置くと、<1>病室の床から浮遊する塵埃により汚染されやすく清潔でないこと、<2>ハナのような運動機能障害のある患者の場合、食事、排泄、リハビリテーションなど身の回りの行動に介助を要するが、畳と寝具ではこのような介助が困難であること、<3>患者にも立ち上がる際などに無理な負担がかかること(ハナには起立性低血圧と認められるような症状がみられたが、起立性低血圧の場合には臥位から急激に立位をとることは好ましくない。)等診察ないし看護上の支障がある。

また、病室に畳、寝具を敷くにしても、結局畳等と病室の床との間に高低差ができるのであるから、患者がつまづいた場合などには、ベッドのように棚などにつかまるところがないだけにかえって大きな危険がある。

従って、床に畳を敷きその上に寝具を置くという義務はない。

(3) 抑制帯の使用について

藤田医師及び稲葉医師は、看護婦らとともに抑制帯の使用も検討したが、抑制帯を使用すると、ハナの自由を拘束しハナに大きな精神的苦痛を与えるのみならず、ハナの肉親である原告にも苦痛を与え、又ハナのリハビリを阻害する為、原告のように積極的に介助をしようとする付添人が付く以上、抑制帯は使用しないこととした。

(4) ハナがベッドから落ちないよう適切な措置を講じたこと

ハナは立ち上がるにしても、一挙に起立することはないのであって、立ち上がるまでには身体を動かしたり、言語を発したりする状態が先行し、これらがある程度の時間継続していた。特に夜間に睡眠状態から突然起立状態になることは考えられないことであった。従って、看護婦らが、適切な頻度で観察すれば、ハナが立ち上がりそうな状態を事前に察知し、声をかけて注意したり、身体の位置を直したりすることにより、ハナが立ち上がることを防ぐことができるのであり、また、既に立ち上がっているのであれば、説得して横にならせるなどの処置をとることができると判断された。

担当の看護婦らは、この点につき十分注意をしながら、ハナの様子に異常がないかどうか確かめるため、適当な頻度で病室に赴いていた。更に平成二年七月二九日の転倒以後は、看護婦らによる巡回を更に高い頻度で行うこととし、かつ、右の転倒があったことを念頭に、ハナの身体の動きにより一層注意を払っていた。

以上に加え、ハナのベッドの高さは、最も低く調節され、ベッド脇の棚が立てられ、更に、原告が付き添っているという状態であった為、藤田医師及び稲葉医師は、ハナの転倒ないし転落の防止を含め安全の確保に問題はないと考えていた。

(原告の反論)

看護婦が頻繁にハナの様子を見にいったとしても、巡回と巡回の間にハナが立ち上がり歩行し転落する危険はあり、また、ハナが身体を動かしても大きな音をたてたり、言語を発するとも限らないから、頻繁にハナの様子を見に行くだけではハナのベッドからの転落の危険を防止する措置としては不十分である。

3 争点3について

(原告)

原告は長男であり、ハナと同居し、ハナが余生を全うすることを楽しみにしていたところ、藤田医師が看護上の注意義務を怠り、その結果ハナが死亡したことにより精神的な苦痛を受け、そのショックから立ち直れないほどであり、その精神的苦痛を慰謝するに足りる金額は一〇〇〇万円を下らない。

第三  当裁判所の判断

一  争点1について

1 平成二年七月二九日午後一〇時五五分頃ハナの病室で物音がし、ハナがベッドの傍らの床に仰向けに倒れており、右側頭部に打撲症を負ったこと、同年八月七日午前四時頃ハナの病室で物音がし、ハナがベッドの傍らの床に仰向けに倒れていたこと、ハナが同月一五日にくも膜下出血により死亡したことは当事者間に争いがない。

甲三九によれば、ハナが入院していた七〇六号室(乙一一によれば、ハナが平成二年七月二〇日から八月七日まで七〇六号室に入院していたと認められる。)と看護婦が待機するナースセンターとの間はある程度離れていることが認められ、乙六(看護記録)の記載(七月二九日、「ドーンという音がしたため廊下へでると……」。八月七日、「ドスンと転倒、物音を聞き訪室する」)から、ハナの二回の転倒時に右病室からナースセンターにまで聞こえる相当大きな物音がしたことが認められる。

乙六(看護記録)によれば、ハナは夜間、ベッド上に立ち上がったり、ベッドの柵を乗り越えようとしたことがあることが認められる。

証拠保全の結果(以下の丁数は、証拠保全記録のもの)によれば、藤田医師作成の平成三年四月一〇日付被保険者症状調査票に、「パーキンソン病としてかなり、病期がすすんでおり、ほとんど介助なしでは動けない状態。この状態でトイレにいこうとして体がうまくささえられずベッドの柵を乗り越えて転倒してしまった可能性が大きいと思われた」旨の記載があること、藤田医師作成の病歴要約(乙四)に、「八月七日午前四時、ベッドより転倒。その後いびきをかいて入眠。転倒による外傷性くも膜下出血と診断した。」旨の記載があること、藤田医師の証言により、同医師作成と認められる診療録経過用紙の七月三〇日の欄(五一丁)に、「夜中にベッドより転倒、右側頭部を打撲、神経学的にはtremor(振戦)は強いが特に問題はない。頭部CT、特に異常はない」との記載、七月三一日の欄に「ベッドより転倒したあとから、座位になると目まいがする。耳鼻科へ、内耳振とうによる一時的なvertigo(めまい)と思われる」との記載、八月七日の欄(五三丁)に「朝四時ベッドより転倒」「頭部CT、SAH(くも膜下出血の略と思われる。)!!」「脳室内にも小出血」との記載があり、同じく八月七日の欄(五四丁裏、五五丁)に「午前四時ベッドより転落(うちどころ不明)尚約一〇日前も転落」、「外傷のみによるものです。現在の際の直接のimpact(軸索損傷)によると考えます。外科的にも保存的にも治療法はありません」(脳外科谷口民樹記載部分)との記載があること、看護要約(二二二丁)に、「八月七日四時ベッドから転落、ドスンという音で訪室すると洗面台の前に倒れている」との記載があることが認められる。

《証拠略》によれば、七月一四日以降、ハナのベッドの高さは低くした状態であり、床からマット上部までの高さが五〇センチメートル弱であったこと、ベッド脇の柵は立ててあったこと、ベッド上のマットから柵の上部までの高さは約25センチメートル程度であったことが認められる。

また、《証拠略》によれば、病室の床は、コンクリート地の上に、厚さ二ミリメートルの塩化ビニル樹脂を主体としたシートを張ってあったことが認められる。

以上を総合すると、ハナは平成二年七月二九日夜にベッド上から転落して右側頭部を打撲し、その後めまい、震え等の症状が見られたが生命に係わる障害はなく(なお、診療録経過用紙五四丁には、脳外科医の指摘として、七月三〇日に右側頭部にSAHを疑わせる部位があるとの記載があり、ハナの第一回目の転落の際に打撲によるくも膜下出血が生じていた疑いがあるが、右記載からこれが致命傷であったとは認められない。)、八月四日午前四時頃、再度ベッド上から転落し、頭部を強打したことによる外傷性くも膜下出血により死亡するに至ったことが認められ、担当医師及び看護婦らも当時そのように認識していたことが認められる。

なお、証人藤田の証言中には、ハナが七月二九日にベッドの傍らで倒れていたことについて、「転落かその他の方法で転倒したかは、どちらとも言えない、両方とも可能性があると思う」旨の部分があり、殊更、転落以外の可能性を窺わせようとするものと思われるが、前記診療録等の記載に照らして当時の藤田医師の認識と食い違うと思われ、前記認定を左右するものではない。

二  争点2について

1 予見可能性について

前記一のとおり、ハナが平成二年七月二九日夜ベッドから転落し、右側頭部を打撲したこと、藤田医師及び看護婦らは右転落の事実を知っていたことが認められる。

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

ハナは府中病院に入院中時々、夜間ベッド上に立ち上がり、又は膝立ちで起き上がる等その行動に安定を欠いていたこと(平成二年七月一二日午前四時及び午前四時三〇分、同月一四日午前三時一五分及び午前四時一五分、同年八月五日午前〇時三〇分)、特に同年八月五日午前〇時三〇分頃にベッドの柵を乗り越えようとし、目を覚ました原告が制止したこと、ハナには軽度の痴呆状態がみられ、ベッド上に立ち上がった際の応答も尿意を訴える外、意味不明のことを話すことがあったこと、これらのことを看護婦が見聞し、藤田医師らは看護婦から聞いたり看護記録を読んだりして認識していたこと、ハナはかねてパーキンソン病の診断を受けており、七月二四日神経内科の須賀医師の診察を受け、脱水による多発性脳梗塞の可能性があるとの指摘を受けていたこと、ハナはパーキンソン病のため体幹四肢機能障害及び上肢から手指にかけての振戦が見られ、日常の動作には介助を必要としていたが、介助があれば病室内のポータブルトイレまで移動できたこと、夜間病室内の電灯は消されること、ハナは白内障のため左眼の視力はなく、右眼の視力は低下していたこと。

以上の事実が認められる。

更に、《証拠略》によれば、七月二九日にハナがベッドから転落し側頭部を打撲した後、藤田医師と看護婦らの間で、出来るだけハナの病室を訪れ、動静に注意することとし、看護計画には、ハナが「夜間ベッドから落ちる」という問題点に対し、具体策として、「危険防止」「頻回に訪室する」ことが記載された。

以上の各事実に照らすならば、少なくとも右七月二九日のハナの転落以降は、ハナがベッド上に立ち上がり、不安定な歩行により、再度ベッドから転落することを予見することは可能であり、現に藤田医師及び看護婦らはその危険性の認識を有していたことが認められる。

この点につき、藤田医師は、「ハナがベッドの上を歩き回ることはないと考えていたから」「床に転落する危険性があるとは考えていなかった」と証言しているが、容易に信用できず、仮にこの証言通りであったとしても、前記の経過等に照らし、転落の危険性を認識し得たと認められ、これを認識しなかったことには、看護に責任を持つ医師として重大な過失があると考えられる。

転落の結果、ハナが死に至る傷害を負うことの予見については、平成二年七月二九日にハナがベッドから転落した際、頭部を打撲していること、パーキンソン病と診断されていたハナの前記病状、ハナが当時七八歳という高齢であったことに照らすと、ハナがベッド上からの転落の際、頭部を庇う等の有効な防御方法をとらないまま頭部を強打し、その結果死亡も含めた重大な結果が発生することを具体的に予見し得たと認められる。

2 ハナのベッドからの転落、死亡の結果を回避するための措置について

(1) 一般に、病院に入院中の患者に一定の危険が生ずることが予測される場合、その患者の担当医師はその結果発生を防止するために一定の作為義務を負うか、また具体的にいかなる作為義務を負うかは、医師の専門的判断に基づく裁量の範囲があることを前提とし、予想される結果の重大性、予測される結果発生の蓋然性、結果発生を防止する措置の容易性、有効性、その措置を講ずることによる医療上ないし看護上の弊害等を総合考慮して判断すべきであると考えられる。

本件においては、予測される結果はハナがベッドから転落し頭部を打撲して負傷ないし死亡することであり、その結果は重大である。

また、先に認定したとおり、ハナは痴呆状態のため危険性を十分理解しないでベッド上に立ち上がることがあったこと、平成二年七月二九日のハナの頭部打撲もベッドから転落したことにより生じたものと認められることの各事実に照らすなら、ハナが再度ベッドから転落して死亡を含めた重大な結果が生ずる蓋然性が相当程度あったと認められる。

右予測される結果の重大性及び結果発生の蓋然性に鑑みるなら、担当医師らはハナがベッドから転落するのを防止するのに有効な措置を講ずる一定の作為義務があったと言うべきである。

なお、原告は、ハナがベッドから転落しても重大な結果が生ずるのを防止する作為義務があったとも主張するが、具体的な主張がなく、その作為義務の内容、根拠が争点となっていないのでこの点については判断しない。

そこで、以下ハナの主治医であった藤田医師及びその指示により看護に当たっていた看護婦らに具体的に如何なる作為義務があったかにつき検討する。

(2) 抑制帯(転落防止帯)の使用について

ハナがベッドから転落するのを防止する確実な措置としては、抑制帯の使用が考えられるが、《証拠略》によれば、抑制帯は患者の身体の自由を拘束し、精神的苦痛が大きいこと、抑制帯を使用するとハナのリハビリテーションの妨げになること、藤田医師は抑制帯は、自傷の危険が大きい意識消失、朦朧状態の患者に使用すべきものと考えており、ハナはこのような状態になかったことの各事実が認められる上、原告はハナの運動機能低下をおそれ、藤田医師らにハナを寝たきりにしないでほしい旨申し出ていることが認められるのであり、右各事実に照らすならば、抑制帯を使用する必要がないと考えた藤田医師の判断は、合理的な裁量の範囲内にあり、抑制帯を使用する法的義務があったということはできない。

(3) 畳使用について

原告が主張するようにベッドの使用をやめ、病室に畳を敷きその上に寝具を置く措置を講ずれば、高所から転落するという危険そのものを排除でき、被告が主張するように、病室の床と畳との高低差により、ハナがつまずいて転倒する危険があるにしてもその可能性が高いとは考えられず、その際の転倒による衝撃も、ベッドから転落した場合に比較して遥に軽いと考えられ、死亡等の重大な結果が生ずることは通常考えられないから、畳を敷く右措置は本件のような結果発生の防止策としては、一応確実な方法であると認められる。

《証拠略》によれば、原告は八月五日午前零時三〇分にハナがベッドの柵を乗り越えようとした後、河野医師と斉藤看護婦に、ハナの病室を畳の部屋にするよう申入れたことが認められる。

更に甲六及び原告本人の陳述部分には、原告が右医師及び看護婦から、「畳の部屋にする」約束を得た旨の部分があるが、後記のとおり府中病院では病室に畳を使用することは例外的であったことに照らすと、右部分はにわかに信用できない(また仮に医師及び看護婦が原告が述べるようなことを言ったとしても、それにより担当医師及び病院側の看護方法が拘束される理由はない。)。

ところで、病院における医師の看護設備の選択については、病院の設備、看護態勢による制約下において、医療、看護上の合理性の範囲内において、医師の裁量が認められると考えられる。

甲三五によれば、他の病院においては老人の部屋に畳を敷く例もあることが認められるものの、《証拠略》によれば、一般に病室に畳を敷くのは特殊例外的であり、府中病院においては畳を敷いた病室もあったが、それは一室だけであり、しかも畳を使用した患者は一〇〇歳位の高齢者で、リハビリテーションをしていなかったこと、原告はハナの運動機能低下をおそれ、藤田医師にハナを寝たきりにしないでほしい旨申し出ていたこと、畳を使用するとハナを寝たきりの状態にしないためのリハビリテーションに妨げになること、藤田医師は、床に畳を敷き、そこに寝具を置くと細菌感染の原因になると考えていたことの各事実が認められるのであり、右の各事実に照らすならば、ベッドによる看護態勢を継続したことは、担当医師の裁量の範囲内であったと認められ、畳を敷きその上に寝具を置く方法に改める法的な義務があったとまでは言えない。

(4) 巡回を頻繁にすること

一方、ベッドの使用を継続しつつ、ハナがベッドから転落するのを防止する措置としては、被告が主張するように、ハナの部屋の巡回を頻繁にする方法が考えられるところ、右措置は、患者の様子を注意して見守るという看護の基本に適った方法であり、かつ比較的容易に実行できると考えられる。

もとより、巡回を頻繁にしたところで、巡回と巡回のあいだにハナがベッドから転落する可能性を全く否定することはできないが、巡回の回数が増えればそれだけハナがベッドから転落する危険性が少なくなることは明らかである。

そして、《証拠略》によれば、実際にも、平成二年七月三〇日頃、藤田医師及び看護婦らの間でハナの病室をなるべく多く訪れ動静に注意することが、看護方針として決められたことが認められる。

以上によれば、巡回の頻度を多くしてハナの動静に注意することは、転落防止に必ずしも万全の方法とは言えないが、出来るだけハナの身体の自由を拘束せず、危険発生の蓋然性とリハビリの必要性とを調整する、現実的かつ比較的容易な手段であると考えられ、外に有効で、かつ弊害のない看護上の通常の手段が認められないことに照らし、更に原告がハナの精神安定のため付添いをしており、ある程度原告にハナの身体の安全について期待できる状況にあったことを考慮すると、合理的な看護方法として容認される。

そして、本件においては、右方法が担当医師及び看護婦らの間で看護方針として取決められ、患者側からその確実な履行が期待されていたものと考えられ、平成二年七月三〇日以後は、ハナの看護において、安全配慮上の義務となっていたと認められる。

その頻度は、ハナの動静にもより、一概に決められないが、《証拠略》によれば、ハナの入院していた病棟においては、通常午後九時から午前六時までの間、最低一回以上訪室していたということであり、転落を防止するという目的及び頻回に訪室するという前記看護方針に照らすと、一時間に一回よりは多くハナの病室を巡回して、その動静を観察することが期待されていたと考えるのが相当である。

(5) 巡回義務の履行について

被告は、ハナの平成二年七月二九日の転倒以後は、看護婦らによる巡回を更に高い頻度で行うこととし、かつ右転倒があったことを念頭にハナの動きにより一層注意を払っていたと主張し、《証拠略》には、右主張にそう部分がある。

しかし、右証拠によっても、どのように巡回の頻度を増やし、かつハナの動静に注意を払っていたかについては、曖昧で、具体性を欠き、その内容は明らかでないと言わざるを得ない。

乙六(看護記録)によれば、夜間の巡回の記録の頻度は七月二九日のハナの転落の前後で一時間ないし二時間に一度程度と変わらないこと、特に深夜は三時間に一度程度しか巡回の記録がない日があること、看護記録の記事欄には、「入眠中」の記載も多くなされており、特に異常がない場合でも一応看護記録への記載はなされていると考えられること、二度目の転落のあった八月七日の看護記録の記載は、午前零時三〇分に「ゴソゴソ動いているが、臥床していないので様子見る(昼夜逆転)」、午前二時に「さかさまになって眠っている(足元の方に)ので……位置をなおす」との記載があり、その後午前四時の転倒の記載になっていることの各事実が認められるのであり、右各事実に照らしてみると、ハナの一度目の転落があった七月二九日以降も特に頻繁に巡回がなされたことや、動静を注意して、転落の防止に努めた様子は窺われず、八月七日においても、午前二時から午前四時までハナの動静を観察したことは窺えない。

以上によれば、看護婦らは、前記看護方針に従い、頻繁に巡回し、ハナの転落による危険発生の防止に務める義務を履行していなかったと認めるのが相当であり、藤田医師には右義務履行のための具体的な看護態勢をとる指示監督義務を怠った過失が認められる。

(6) 次に、本件においては、病院側の右義務違反とハナの死亡との因果関係が問題となる。

先に指摘したとおり、巡回の頻度を増やすことは、有益な方法ではあっても、これを履行したからといって、必ず転落を防止できる方法ではないと考えられるからである。

しかしながら、右義務を着実に履行していれば、転落を防止し得た可能性も否定できないから、右の事由をもって被告の免責理由とすることは、公平の観念から容認し難い。

本件の様な場合においては、危険発生の相当の蓋然性があるなかで、病院側が法的な義務として期待される措置を現実に履行しない場合には、適切な看護をうける期待を有している患者に対し、その機会、可能性を奪ったことによる不法行為が成立すると考えられる。

特に本件においては、原告が、ハナの転落の危険を認識し、これを回避するために、畳の部屋にするように具体的申し出をしており、病院に対し、ハナの転落防止に必要な措置を取ることを強く期待していたことが認められ、これに対し、巡回を増やす方針を決めたが、それを履行していないことは、ハナに対し、適切な看護を受ける機会を失わせた点において不法行為責任を免れないと考えるのが相当である。

なお、原告は、ハナの死亡による精神的損害を慰謝料として請求しているが、右精神的損害とは、ハナの死亡そのものの外、藤田医師ら病院側の不作為により、ハナが適切な看護を受ける機会を奪われたことによる精神的損害を含むと考えられる。

三  争点3について

原告の損害が、ハナの死亡そのものによる精神的損害ではなく、ハナが適切な看護を受ける機会を奪われたことによる精神的損害であること、《証拠略》によれば、原告はハナと二人暮らしをしており、ハナに対する愛情が深かったと認められること、原告がハナの転落を危惧し、医師らに原告なりの安全策を要望していたこと、原告が自ら希望してハナの入院に付添っていたことなど諸般の事情を総合考慮すると、原告に対する慰謝料の額は二〇〇万円をもって相当と認められる。

四  結論

よって、本訴請求は、被告に対して二〇〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である平成五年八月一四日から支払済まで年五分の割合による金員の支払いを求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 野村高弘)

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